毎年6月が来ると想い出すことがある。あの沖縄戦を生きながらえた一人のおんなの突きつけた"戦傷"を前に、身の置きどころを失って戸惑った若き日のぼく自身の姿についてである。
おんなは1921(大正十)年生まれ。毎日のように顔を合わせていたその頃は、四十にさしかかったばかりの女ざかりであった。ぼくはそのおんなを、お母さんと呼んでいた。沖縄の女にはめずらしく色白で、広いおでこに、愛くるしい眼。真夏の暑い日でも和服を上手に着こなしていた。しかし、歩くとからだが左右に大きく傾いた。戦争で片方の足をそのつけ根のところからもぎとられ、義足をあてがっていたからである。
彼女は、その不自由なからだで一軒の小さな食堂をきりまわしていた。その食堂は那覇市牧志(まきし)の国際通りから横町を少し入ったところにあった。当時、沖縄で新聞記者をしていた独身のぼくは、ここで日ごと一,二食の食事にあずかっていた。食事代は無料。その代わり、彼女の長男が東京・世田谷のぼくの実家で食事を摂っていた。食事の、いや息子の交換をしていたのである。
"義足のおんな"の「息子」になったぼくは、調理場に接した六畳ほどの彼女の居間に通され、いつもそこで食事をした。客の出入りの多い食堂のアンマー(おかあさん)ゆえ、せきのあたたまるヒマはなく、一日中、立ったり座ったりの生活だったが、義足のまま畳の上に座ることのできない彼女は、その都度、和服の裾をたくしあげ、義足のつけ外しをした。すると、太股のあたりで無惨に断ち切られた白い足が小さな部屋の蛍光灯の明かりの下にさらされた。
そんな時、ぼくは、見ていいものか、それとも目をそらすべきか迷ったが、おんなはぼくの感情にはお構いなく、いつも大胆に裾をたくしあげ義足の付け外しを繰り返した。1960年代初め頃のことである。