もの想う空間 不思議な光景である。展示室の正面に掲げられた一枚の絵の前に高校生が音もなく立ちすくむ。息を呑んで凝視つづける。ながい沈黙が衝撃の大きさを物語る。ついさっきまで貸し切りのバスのなかではしゃいでいた若者たちである。戦争とはおよそ無縁な、茶髪やルーズソックスの若者が出会った
"戦場" -----。
たった一人の寡黙な男がつくり上げた小さな美術館「佐喜眞(さきま)美術館」が人々に与えつづけるインパクトの大きさに、ぼくは驚く。
館長の佐喜眞道夫は言う。「人々が、静かに物想う空間をつくりたかった」軍事基地をめぐる喧騒の沖縄、こころよりも物が優先する現代社会。試みは着実に根を下ろしつつある。『原爆の図』で知られる画家、丸木位里・俊夫妻が描いた『沖縄戦の図』の常設館である。建物を取り囲むように米海兵隊普天間(ふてんま)基地のフェンスが張りめぐらされている。上空を機体を灰色にそめた大きなヘリコプターが回旋する。
佐喜眞はこの普天間基地に三千余坪の土地を持つ地主の一人である。祖母から受け継いだ土地だ。国から支払われる年間の地料は二千万円。不良所得にも等しいこの金で、佐喜眞は絵画の購入をつづけた。ケーテ・コルビィッツ、ジョルジェ・ルオー、そして上野誠
......。収集のテーマは「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」。コレクションは300点にものぼる。
自分の生き方と相反する戦争のために使用される土地。その地料をどう使えばよいのか。考えた末、本物の芸術作品の収集に思い至った。
そんな佐喜眞に、ある日、丸木位里が言った。「佐喜眞さん、これをもらってくれるか?」埼玉県東松山市を流れる都幾(とき)川ほとりの丸木美術館の収納庫のなか。『沖縄戦の図』14部作を前にしてである。佐喜眞の本職は鍼灸師。彼はこの時、強度の眼精疲労に苦しんでいた丸木俊の眼の治療のため、週一回ここへ通っていた。そんなことが11年もつづいた時のことであった。 ---
いただいてもいいのですか?「ああ、あんたに託す。やってくれるか?」
--- わかりました。やらせていただきます。『沖縄戦の図』は沖縄の人たちとの共同制作で出来た。だからこの絵は沖縄に返すべきだ、と丸木は考えていた。絵には、戦場でたおれ、「自決」に追い込まれ、そして頼みとする日本軍にまで殺されていった人たちの最後が描かれている。そうした修羅をくぐった体験者たちが丸木夫妻を現場に案内したり、モデルを買って出て完成した。
沖縄に返す---。丸木夫妻の執念は佐喜眞に美術館完成を急がせた。1985年秋、彼がまだ東京に住んでいた時のことである。
『土地を取り返す』続く→