写真:岬への道 戦争末期、人びとはなだれをうって海を目指した。
沖縄島の南端、喜屋武(きゃん)岬への径をたどる時、ぼくの脳裏にはサイパンやテニアン、そしてベウラ(旧パラオ諸島)など、かつて幾度となくかよった大平洋の島々がたち現れる。風土や地形が似かよっているからだけではない。あの戦争末期、ごく普通の人たち−それは老人や女性や幼い子供たちが多かったのだが−が、岬の先に〈生〉を求めて細い径へとなだれ込んだ悲しい共通項を持っているからだ。
近現代の戦争での死者と負傷者の割合は、戦死1に対して負傷3というのが定説だという。だが、沖縄戦ではこれが逆で、負傷者よりも死者の方が多かった。動くものは何でも撃ったからだ。つまり日本兵は "皆殺し"の対象でしかなかったのである。そして皮肉にも、その日本兵に国が課していたのも「死」そのものであった。戦死者と投降者の比率にもそれが表れている。戦死5.5人に対し、投降は1人。ひとたび戦地に送り込んだ兵士が生還することを、この国は潔しとしなかったのである。
無論、住民も容赦ない狙撃の対象とされた。日本軍が首里を撤退した5月末から6月末にかけて、喜屋武一帯に押し寄せた避難民は10万人。日本兵−といっても、その多くは部隊の体をなさない敗残兵であったが−は3万人といわれる。砲弾が飛び交うなか、何十日もの逃避行の末、岬近くにたどりついた避難民の目にまっさきに飛び込んできたのは、「まるで舞台がはねたあとの雑踏」か「祭りの会場のような人の群れ」であったと生存者は話している。当然、ここに来るまでに身をかくした亀甲墓や、地底を這うガマのなかも同様であったに違いない。
そんな軍民混在の、見渡すかぎり平坦な島尻の山野で、日本軍の司令官は「最後の一兵まで戦え」と全軍に命令。一方 "勝ち戦" に酔った米軍は、逃げまどう避難民を戦闘爆撃機で追いまわし、まるでゲームでも楽しむかのように銃弾をあびせたという。アダン(熱帯性常緑低木)の繁みにかくれる婦女子にさえ火炎放射があびせられた。焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす。日米合作による「三光作戦」の国内版であった。
不幸を大きくしたもう一つの要素がある。戦陣訓や軍人勅諭をたたき込まれた兵士たちの狂信的な振る舞いだ。
岬に追いつめられ、行き場を失った人たちのなかには、沖合いの米艦船からの呼びかけに応じて投降しようとする者が相次いだ。その背後から味方の銃口が火を吹いた。こんな証言がある。
「上のほうからは米軍がつぎつぎ壕の中に手榴弾をぶちこんでくるし、海からは拡声器は呼ぶし…近くの海岸には日本軍もまだだいぶ残っておりました。そこの海岸には大きな岩がたくさんあり、ぼくたちは兵士たちといっしょにその岩かげにかくれていました。突然 朝鮮人の軍夫が五人 フンドシ一本になって海に向かってかけていきました するとぼくの隣にいた兵隊が この野郎!と言って朝鮮人の一人を波うちぎわで撃ち殺してしまいました」〔宮城高進、投じ16歳。沖縄県立平和祈念資料館ガイドブック『平和への証言』〕
友軍の銃弾に斃れた者のなかには住民もいれば沖縄出身の防衛隊員や日本兵もいた。戦場を転々としながら傷病兵の看護にあたった学徒隊の少女もいた。「敵に投降する者は非国民」「生きて虜囚の辱めを受けず」という〈国の教え〉が同胞を撃った。