「サイパン島のバンザイ岬では、夜になると死者たちの慟哭が静寂をやぶり、闇の海上を無数の人魂が飛び交うんですよ」
こんな話を聞いて、岬へクルマを飛ばしたことがある。戦後30年以上も経った時のことだ。『バンザイ岬』とは、敵に追いつめられた日本人−主に南洋移民といわれた人たちで、その多くは沖縄出身者であったが−が「天皇陛下バンザイ」を叫んで崖下に身を投げていったことからそういわれている。 月のない夜であった。行ってみると、たしかに闇夜のなかから慟哭の悲鳴が聞こえる。ヒーッ、ヒーッという悲しげな声や、ボオッーという竹笛の音のようなうめき声…。岩場に打ち寄せる波のざわめきが
"死者たちのうめき声"をゆする。
ぼくはクルマのなかに飛び込むと、アクセルを思い切り踏み込み、人ひとりいない岬の道を全速力で走り抜けて町へ逃げかえった。何かが追いかけてくる。背筋が凍りつくような怖さを感じたからだ。
あとになってわかったことだが、"声の主"は岬の断崖にいくつも口をあけたガマ(鍾乳洞)を吹き抜ける風であった。ガマは地底をとおって原野のそこここにぱっくりと口をあけている。そんな形状が笛の役割を果たしていたのである。自然は遠い過去をそんなかたちで人びとの前によみがえらせてみせたのだ。
そのサイパンで思い出すのは、サイパン、テニアンなどのマリアナ諸島から東京に至ってる空のルートを、かつて米軍爆撃機のパイロットたちが「ヒロヒト・ハイウェイ」と名づけていたことだ。この航路は、首都・東京に爆弾の雨を降らせ、日本の天皇制崩壊の使命を課されたB29爆撃機の "空の道"であった。「ヒロヒト・ハイウェイ」とは、勝利への彼らの限りない自信を小憎らしいまでに表した命名である。
そして、標的となったこの国=日本は、敗戦と引きかえに新憲法と米国式民主主義を手に入れただけで、根から変わろうとはしなかった。皇居の周囲に林立するビル群−国会議事堂から最高裁、警視庁、そして大手の生命保険会社やホテルまで−は、どれもこれもがいまも皇居の方に建物の正面を向け、居住まいを正して建ちつづけている。日本が天皇を中心円としたタテ社会であることを、これほど見事に表した風景はあるまい。
サイパン島のなかを縦横に走る幾本もの道もまた、バンザイ岬へと収斂し、紺碧の海のなかに消える。だがその径はやがて沖縄島へと到着し、島尻の果て、喜屋武岬へとつづいている。その細い径のみなもとが〈千代田
(区)〉と名のついたこの国の〈中央〉に発していたことに気づくならば、何もかも納得できることである。
隆起珊瑚礁石灰岩のくびれたつ喜屋武岬から北へ、沖縄・島尻の海岸線はその地形を幾ようにも姿を変える。避難民の傷ついた足の裏をいたわったであろう、やわらかな砂地をたたえる束辺名海岸。高さ数十メートルもの巨岩が波打ちぎわまで競り立つ摩文仁海岸。多くの住民が身を投げたギーザバンタ…。足元のどの岩、どの窪み一つとて、血や肉片にまみれなかったところはないはずだ。そんな岩や砂浜を癒すかのように潮騒が打ち寄せる。
*写真:沖縄本島最南端の喜屋武岬。追いつめられた婦女子らがここからも海に身を投げた。