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先輩ジャーナリストの岡本愛彦(よしひこ)さんが亡くなった。10月24日だったという。享年79。前立腺がんのため自分の命はそう長くはない、との知らせ受けてからもう何年になるだろうか。よく頑張られたと思う。 岡本さんとは僕が在京のテレビ局でドキュメンタリー番組を担当していたときからもう20年以上のおつき合い。仕事上の相談ばかりか、極私的なことまで相談にのってもらった。僕たち仕事仲間は「ラブさん」「ラブさん」と呼んで氏を慕った。愛彦の「愛」を横文字にしたものだが、いつも笑みを絶やさず、若者に希望を託す、文字どうり誰からも愛される人だった。 晩年のラブさんは大学の教壇からジャーナリズム論などを若者に説いていたが、元々はNHKやTBSの職員としてテレビドラマを担当。氏が演出したBC級戦犯の悲劇を描いた「私は貝になりたい」はあまりに有名だ。 1980年に僕がつくった『出陣学徒 生と死の証言』は、ラブさんがいつも語っていた学徒の戦争体験に触発されて企画、ラブさんには自らナレーターつとめてもらった。あの戦争を生き延び、正も負も、醜も美も胸中にたたき込んだ男の情念が〈死者〉や〈生者〉を語るにふさわしいと考えたからだった。のちに僕が石垣島事件をテーマに『最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇』を書くことになったのも岡本さんとの出会いがあってのことに違いない。 会社を辞めテレビの現場から遠のいたあとも、ラブさんからはたくさんの手紙を頂いたし、街で落ち合ってコーヒーを飲みながらおしゃべりしたりした。会うのはいつも喫茶室「滝沢」で、一度なんかは新宿の東口と西口の店を間違え、互いに待ちぼうけをしたものだ。近年は同じBC級でも朝鮮人「戦犯」に心を痛めていて、国に対し「日本人以上の補償」をするよう請願、僕の所にもその都度資料を送ってくださった。ラブさんの胸中からは[帝国ニッポン]に36年間も支配された朝鮮人たちのことが重い負として渦巻いていたに違いない。 97年頃からは〈自由民権運動の父〉沖縄の謝花昇をドキュメンタリー映画にしようと、沖縄通いを続けていたが、果たして日の目を見たのであろうか。思えば1963年に久高島で僕が初めて撮った『乾いた沖縄』を「こんな優れた作品に出会うとドラマなんか見る気がしなくなる」と、当時『週刊テレビガイド』で褒めてくれたのもラブさんだった。新聞記者をしていた僕がテレビに職替えしたのもラブさんのあのテレビ評が誘い水だったような気がする。 いまこの国はラブさんの志した方向とは正反対の道を突き進んでいる。戦争の愚かさを身をもって体験、若者に説き続けたラブさんにはこれからも〈眠りにくい日々〉が続くに違いない。でも、ラブさん、信じよう。朝の来ない夜がないことを…!
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