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2006年3月7日(火)

二月風回り/にんがちかじまーい


沖縄の感情
(諸見里剛 作)

 3月7日(火) 那覇は朝から小春日和。気温摂氏22度前後。南西の風、心地よい。
 旧暦2月のこの季節、沖縄の気象は変わりやすい。穏やかだった空に突如暗雲が立ち込め、海面はささくれだち、突風が吹く。風は西へ東へ北へと、ぐるぐると方位を変え、海の男たちの肝を冷やす。ベテランの海んちゅでも操船を誤り、命の危険を感じた経験は少なくない。

 このつむじ風、沖縄では“にんがちかじまーい”(二月風回り)という。旧暦の2月にやってくる春の嵐だ。以前は“台湾坊主”と言ったが、異国民蔑視として気象用語から消えて久しい。北東アジアの風土ならではの人騒がせな現象だ。

3月5日の基地反対県民大会の会場で〈琉球連邦〉旗を掲げた詩人・高良勉らのグループは、この国の政治の行く手を阻む“二月風回り”となるかどうか。僕の体内からはまだあの日の昂揚感が消えない。「小さなつむじ風」とはいえ、あれは間違いなく政治的事件であったし、これからも、強まりこそすれ、決して衰えることなく、琉球弧の島々の上空に立ち現れるだろう。

 さて、〈独立決起〉を呼びかけた彼らの行動は、はたしてマスコミニでどう報じられるのか。大会翌日のきのうの朝、沖縄紙(琉球新報、沖縄タイムス)のページを心踊るような気持ちで繰った。
 だが、ない。たったの一行の記事もない。完全無視だ。なぜなんだ。ヤマトの新聞ならともかく…。唖然とする。
 たしかに、彼ら〈独立派〉の存在は大海の中の小舟。吹けば飛ぶような「絶対少数派」だ。「象に立ち向かう蟻」のようなものかもしれない。あるいは「大人のお遊び」と映ったかもしれない。
 でも、間違いなくその主張には、道理も正当性もある。今この国の政府が企んでいる余りに大きな政治的過ち/再編米軍への軍事的コミット=沖縄の恒久的基地化に、真正面から異議申し立てをし、日本国との「集団自決」を拒否、分離独立を選択することは、決して不自然なことではない。こうした民衆を一顧だしないジャーナリストのほうこそ感度があやしい。

 ジャーナリズムの使命は、平地に乱を起こすこと。
 こう言ったのは思想家の荒畑寒村だった。マスコミが大状況を伝えるのは当然の使命だが、もうひとつの目は、地の隅々から芽吹こうとする小さな種にも、たえず温かいまなざしを向けてほしい。つまり「鳥の目」と共に、時代を先読みする洞察力/「虫の目」をも持ち合わせて目ほしいと思う。
 権力に屈せず、民衆の心の中に渦巻く悲鳴のような訴えを報じ続ける沖縄ジャーナリズムの精神は、少数者へのたゆまぬ目配りと“市民の目線”の上に築き上げられたもののはずだ。

 午後、県公文書館を訪ね、1961年代に僕ら新聞記者仲間が会社に隠れて出していた雑誌『沖縄マガジン』の第一号と二号を寄贈する。
『沖縄マガジン』は、今でいえば『週刊現代』や『週刊ポスト』のようなジャーナリスティックな雑誌で、いまとなっては、いわば米軍政下・沖縄の“幻の雑誌”。
 刊行に関わっていたメンバーは津野創一、吉田嗣弘、岡田輝雄と僕のつかいずれも当時琉球新報記者と、写真家を志していた平良昇次郎ら。
 だれもが新聞には限界を抱く“心若き記者”だった。米軍が経営する社交クラブに出入りし、一晩に数千ドル単位のギャンブルに明け暮れる実業界の有閑マダムの実態をあばいたり、高等弁務官資金といわれる政治的つかみ金の闇にメスを入れたり…。
 現物に目を通す公文書館の高良勉さん。
 「61年っていったら僕がまだ小学生のときだよ」。「そんな時代にこんな本格的な雑誌が出ていたんだ」と驚くやら感心するやら。
 沖縄の戦後資料として役立ててもらえるなら、それに越したことはない。
 近く、1972年5月15日に那覇市民会館で行われた日本政府主催の「沖縄復帰記念式典」への招待状(森口豁宛て)一式も寄贈の予定。

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