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5月15日(月) きのう梅雨入りが発表された沖縄。那覇の上空には朝から暗雲が立ち込めた。沖縄の「復帰」からきょうで34年目。この重苦しい、澱んだ空はこの島の人たちの気分をそのまま物語っているかのようだ。
34年といえば人間の生涯のほぼ半分。復帰の年に生まれた子はもう35歳。その長い年月を、米兵に怯え、事件・事故に怯えながら生きた沖縄…。
国の強引な辺野古基地計画が沖縄から [希望] を奪う。
5月17日(水) 埼玉から帰省中の近田洋一君と、終日旧友を訪ねたり美術館を巡ったり。
まず、昨年開館した「沖縄新聞博物館」(琉球新報社内)へ。明治から近・現代までの沖縄の新聞と言論人の歩みの中に、沖縄復帰を報じる1972年5月15日付けの新報紙の紙面あり。
〈変わらぬ基地 続く苦悩〉〈沖縄 いま祖国に帰る〉のタテ横ぶち抜きの大見出し。このとき整理部記者としてこの紙面を作ったのが近田君だ。
館内でその紙面をビデオ収録している若者がいる。聞くと日本テレビの番組スタッフとか。
「この紙面のレイアウトをしたのがこの人」と、近田君を紹介すると、二人のスタッフはびっくり。かくして「歴史の生き証人」のインタビューとあいなる。(その後、新報役員応接室で比嘉辰博社長、三木健副社長、野里洋専務としばし歓談)。
正午過ぎ、琉球放送に上原直彦を訪ね、昼食をとりながらゆんたく(おしゃべり)。彼は「放送を通して地域文化に貢献」したことが評価され、第
4回放送文化人大賞の受賞が決まったばかり。そのお祝いがてらの訪問。
僕ら3人は1956年春、僕の初めての沖縄訪問時以来のつきあい。一時は琉球新報記者として同じ釜の飯を食った間柄だ。
59年6月、石川市で起きた [宮森小学校米軍ジェット機墜落事件] (死者17人)のときは、一緒に現場近くに泊まり込み取材にあたった仲。二人とも石川出身だったこともあり、格段に身も心も入る取材だった。
当時、コザ(現沖縄市)支局勤務だった近田はコザから。上原と僕は、現場へ急行中のパトカーの前に立ちふさがって止め、それに便乗して那覇からいち早く現場入りを果たした。いい警察官にめぐりあった、というべきか、昔はよかった、というべきか。いまではとても考えられないような警察官の「マスコミ対応」だった。
午後は浦添市立美術館(「沖縄と濱田庄司展」)と宜野湾市の佐喜真美術館へ。
「濱田展」では、濱田庄司の作品を前に、かつて壺屋や益子で見近に接した巨匠・濱田を偲ぶ。益子に通って陶器づくりをしていたことのある近田にとっては、ひときわ感慨深かったに違いない。
佐喜真美術館常設展示の [沖縄戦の図](丸木位里・丸木俊作)。 近田は丸木夫妻がこの絵を描いている場面にも出会っているという。
同時開催のケーテ・コルウ"ッツ展ともども、人間の尊厳と戦争の愚かさが、ずしんと胸を衝く。61年前のちょうどいまごろは沖縄戦のさなかだったし…。
近田、館長の佐喜真道夫と芸術論に花を咲かせ、楽しそう。お連れ合いの一周忌で帰省した彼だが、故郷の水と風に抱かれ、元気をもらった様子でなによりだ。
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