日本軍捕虜収容所
沖縄戦のさなか、仲間とともに敵前逃亡し捕虜になった元日本兵が、ある時ふと話したことがぼくの脳裏にひっかかっている。勝ち誇った兵士の視線と、二重に張りめぐらされた鉄条網のなかの日本軍捕虜収容所で兵士たちが演じた下克上のことである。
歴史の転換期、人はさまざまな人間模様を描き出すが、日本軍捕虜収容所のなかで演じられた光景はたいそう直截的であった。それぞれの人生観やこころの醜さ、そして国家観までが収容所という狭いリングの上で噴き出した。軍服をはぎとられ、まる裸にされて日々米軍から食べ物をあてがわれる男たちに、もう上下関係はなかった。日本という国家の歪んだなりわいもまた、それぞれの出自というかたちで顔を出した。
兵士たちは、収容所内の将校専用幕舎から自分たちの上官をつぎつぎと引き出しては地べたに土下座させて口々になじり、殴ったり蹴り飛ばしたりのリンチを加えたという。「貴様ァ、よくおめおめと捕虜になんかなりやがって。『敵に捕まるぐらいなら死ね』と言ったのはどこのどいつなんだ!」
怒号と悲鳴が飛び交う。なかには上官に直立不動の姿勢を命じ、軍人勅諭や戦陣訓を唱えさせたり、うたを歌わせたりする者もいた。戦場で威張りまくっていた上官が部下に命じられるがままに《勘太郎月夜》を歌わされたという話もある。階級の違いをよいことに、何かにつけ自分たちをサンドバックのように殴りつけた者たちへの報復である。
降り注ぐ弾雨と一方的な米軍の攻撃を前に、投降することも許されずボロ布同然に死んでいった兵士たち。そんな修羅の淵から生還した彼らが捕虜収容所に入って受けた最大の衝撃は、ついこのあいだまで自分たちに対し権勢をふるった上官が、平然として「生きて虜囚の辱めを受け」ていることであった。
沖縄最大の収容所である屋嘉捕虜収容所(写真/屋嘉日本軍捕虜収容所の全景・金武町屋嘉)は日本人棟、沖縄人棟、朝鮮人棟、それに日本軍将校棟の四つに区分けされていた。区分けは彼らの対立に手をやいた米軍が考えだしたものだが、それは日本、沖縄、朝鮮三すくみの近代史を浮かび上がらせることともなった。自らを「純粋な日本人」と意識し、沖縄の人の上に自分たちを位置づける本土出身将兵と、日本人の"悪種"としかみられない沖縄人。それに、本来はれっきとした独立民族なのにその双方から虐げられつづけた朝鮮人という構図である。
本土出身将兵は、概して自分を国家の枠組みのなかに位置づけようとする傾向が強かった。それは「8月15日以前の投降者」と「それ以後」の投降者の確執というかたちで表れた。"敗戦以後の捕虜"は、自分たちを「天皇陛下の命令で捕虜になった」と言って正当化し、"敗戦以前の捕虜"を「本物の捕虜」、つまり恥ずべき者として断罪した。非国民をつくることで自分たちのグレードを高めようとしたのだ。
だが沖縄人(うちなーんちゅ)は違った。彼らの多くは日本や日本人を冷めた目で見ていた。身を挺して国に尽くしたはずだったのに、沖縄人に対する戦場の日本兵の目は不信と猜疑心に満ちていた。スパイとみなされて殺された沖縄人がどれほどいたか。投降しようとして背後から銃で撃ち殺された者も少なくはなかった。そのあげくの敗戦である。
沖縄出身兵士のなかにも下克上に加わった者はいる。しかし、日本軍兵士のような「むやみやたらの報復」とは違った。戦場で部下に無謀な抵抗を強いたり、住民をスパイ視して殺害したりした日本軍守備隊隊長への抗議などがそれである。つまり、理にかなった制裁であった。
明暗がきわだったのは日本兵(軍)と朝鮮人軍夫との関係であった。戦場での朝鮮人軍夫は沖縄人より下に位置づけられ、牛馬のような扱われ方をした。ところが、8月15日を期してその立場は完全に逆転した。天皇の詔勅により日本の敗戦が事実とわかると、日本人棟と沖縄人棟は水を打ったように静まり返った。しかし朝鮮人棟では空き缶を打ち鳴らして歓喜にわいた。そしてその日から日本人将校へのリンチがはじまった。彼らは36年に及ぶ"日帝支配"に民族の恨みと怒りを一気に爆発させたのだ。
思想の転換
収容所の管理にあたる米兵たちは、こうした捕虜たちの三者三様の心理をよく見抜いていた。彼らは琉球や朝鮮の歴史をよく勉強していた。「日本に侵略された民族」である沖縄人と「日本の植民地にされた民族」である朝鮮人には好意的に対応したが、本土出身の将兵には敵意をむき出しにして立ち向かった。
なかには、沖縄人棟の便所掃除を日本軍将校にさせた者もいた。米兵たちはことあるごとに日本兵を"東条一世"
と罵った。あとでわかったことだが、それは「東条糞食らえ」という意味だったという。東条とは、後にアメリカが「A 級戦犯」として絞首刑にした大戦当時の総理大臣兼陸軍大臣の東条英機のことだ。
一方、捕われた側の心理は、彼らが収容所に送り込まれた時に見せた表情に現れていた。朝鮮人と沖縄人は安堵の表情を垣間見せ、昼も夜も死んだように眠りつづけた。
これに対し日本人将兵は極度の緊張に表情をこわばらせ、「自分たちはいつ殺されるのか」との不安に襲われつづけた。戦時中に不当行為を犯した者ほど"明日の我が身"を恐れた。多くの者が偽名をつかった。座して死を待つよりはと、逃亡をくわだて射殺された者もいた。
"敗戦以後の捕虜"が進んで捕虜の差別化に走ったのは、天皇の後ろ楯を得ることで身の安全を図ろうとしたためであった。
鉄条網で仕切られ、正確な情報もない狭い収容所のなかで「戦前」から「戦後」へ、軍国主義から民主主義へ価値観を180度換えることもまた、至難の業であっただろう。
それにつけても、収容所のなかで敗戦直後に浮かび上がった日本、沖縄、朝鮮三者それぞれの精神風景は半世紀を経た以後もほとんど変わっていないことに気づく。この三者の融合の核にならなければならないのは、言うまでもなく「日本」なのに、である。
ぼくに収容所内の下克上について語った人のなかに、一人の敵前逃亡兵がいた。この人は関西の出身だが、この人の戦線離脱の理由は「命が惜しかった」からだという。一方、この人と行動を共にした沖縄出身兵士の逃亡理由は「日本への不信」であった。女性や子供を危険な壕の外へ追いやって恬として恥じることのない日本軍の姿を、彼は戦線で見つづけてきた。日本軍に対する怒りと、軍隊を通して見える日本ーーー。
国家への絶望が彼に銃を捨てさせた。
この図式は、自らの安全のために沖縄にのみ軍事基地の危険と苦しみを強いつづける今日の日本と沖縄の関係にそのまま重なり合っている。沖縄問題の根の深さを感じさせる構図である。