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追悼 中村哲氏 中村氏は、かつて私たちが発刊していたパンフレット『観てきた沖縄』(後に『沖縄』と改題)にも玉稿を寄せている。1956年、沖縄がまだ米軍統治下にあった頃のことだ。寄稿を請いに東京・世田谷の居宅を訪ねた私を、氏は穏やかな表情で迎い入れ、執筆を快諾された。未熟でささやかな運動に協力してくれたことが嬉しくて、私たちは夢中でガリバンを切り、印刷したものだ。氏の逝去にあたり、あらためてその全文を紹介し、ご冥福を祈りたいと思う。 僕は深尾須磨子さんが「沖縄よ」と云う詩を読み上げた日比谷大会をいま思い浮かべる。 それは、プライス勧告に対する抗議の国民集会であった。深尾さんの詩は、いたみつづけられた沖縄が、またしてもふみにじられようとしている、なんという不運なお前なのだろうという意味のもので会った。なぜ沖縄だけが踏んだり蹴ったりされるのかという反問は国民の誰もが感じていることを表現しているといっていい。 沖縄はいつ恵まれた時期というものがあったのであろうか。ひめゆりの塔の戦闘は日本では沖縄だけが経験したものであった。いままた、日本憲法やアメリカ憲法だけでなく、世界人権宣言のいっている人種の平等、政治の平等から、意見と発表の自由、集会、結社の自由等が無視されている実状だということである。現代の世界にあっては、これほど逆境にある地域というものは例がないといっていいだろう。えりに選んで、なぜ沖縄がまたそういう土地とされようというのか。国連の信託統治に付せられるというのが、日本平和条約の内容だが、信託統治というのは国連憲章によれば、本来自治能力のない未開社会の場合のことである。 こうしてみると僕にはどうも、沖縄というものに対して、未開社会か、民度のおくれた地域であり、住民であるという考え方がアメリカ側にあって、それが問題を一そうこぢらせているとしか思えない。 深尾さんが義憤を感じているのも、そういうことにあるのだと思う。それというのも、沖縄は小さな島であるから、世論や協力の手が差し伸ばしにくいということがあるために孤立させられているのである。おそらく、沖縄が欧州の中の島であったら、これほど人権を無視し、デモクラシーに反する取り扱いはされなかったであろう。ペリーの来船のときも、アメリカはまず日本本土へ取り付く前に、沖縄を足場にしたし、太平洋戦争でも、そのコースをたどったのであるが、こういう点でも、日本本土の足場として使われ、沖縄というものが一個の独立した存在として取り扱われていないという感じさえある。また将来、日本本土から軍事基地が撤去せざるを得なくなるような場合にも沖縄が本土と同じ一体の運命をたどるかといえば、むしろ沖縄が本土の犠牲となって、外国の要求をたえしのばなければならないことがあるのではないかと想像する。だから、これまた大変悲運なることであるのでそういう道をたどらせたはならない。しかも日本本土とともに、常に行動を共にするということが必要である。要するに沖縄の問題と日本本土の問題をつねに切り離して考えないということが沖縄をこれからも悲運な状態におかないようにするための必要な条件である。この結束を日本本土自身がおろそかにするとすれば、日本全体の不幸であるということを自覚しなくてはならないであろう。要するに沖縄に一個の人格と同じような個性を認めて、個性を尊重することによって、相互に協力するということが民主主義における日本本土と沖縄との関係であると思う。沖縄の個性というものは、民俗学や歴史学の上では美しく評価されて来ていることであって、それを未開社会なみに取り扱おうという日米平和条約の考え方そのものに、僕は反対せざるを得ないのである。 『沖縄』No7 (1965年)より |