土地に翻弄された半世紀

 乳白色とオレンジ色に羽を塗りわけたツマベニチョウが群青色の海面を渡り、エメラルド色の斑紋の美しいオオゴマダラはふわふわと樹林を泳ぐ。繁みの奥ではリュウキュウアカショウビンが真紅の嘴(くちばし)をゆすりながらさえずっている。
 南西の海に向かって開ける市街地の背後には、四季を通して照葉樹林に覆われた山々が連なる。山は町の人々の安らぎ、クサティ(腰当て)の役割を果たしつつ、ゆったりと横たわる。この山向こうを地元では「裏地区」「裏石垣」などと呼ぶ。人を寄せつけない所、あるいは立ち入らざる所、そんな思いがこの言葉には込められている。集落はまばら。車の通れる道ができたのは戦後のことだ。

*写真 水道も電気もない開拓団。人々がまっさきに始めたのは山から木を切り出し学校の校舎を建てることだった。

 そうした村の一角にあるみやげ品店の軒下で、上地源開(うえちげんかい)さん(48歳)はもぎたてのパイナップルの皮をむいていた。鉄骨を組んでスラブを葺いただけの一見して倉庫のような店内では、東北から来たツアー客が棚に並んだみやげものを物色。入り口にせりだした調理台では源開さんの妻みどりさん(40歳)が、むいたばかりのパインやマンゴーをミキサーにかけながら客の応対に忙しい。上地源開さんは本土からの観光客を当て込んだみやげ品店「ぱぱ屋」の主人である。
 石垣島の市街地から北西方向に24キロメートル、県道79号の米原(よねはら)バス停近くから大型バスがやっと入れるほどの狭い道を右に折れ、畑の中を300メートルほど行くと、道は島の観光名所、国の天然記念物ヤエヤマヤシの群落のある山の入り口に突き当たる。上地さんの "生産の場" 「ぱぱ屋」はそこにある。

◆不本意な方向転換 もともとは第一次産業の振興を夢み、沖縄の主要産業である砂糖きびやパインなど農業ひとすじで生きるのが夢だった。だが、離島県のまた離島という悪条件や展望なき農業に見切りをつけ、時勢に乗った観光業に転身した。いわば不本意な方向転換であった。
 子供は航空会社の勤める18歳の長女を頭に4人。長男と二男はまだ高校生、その下に中2の二女がいる。「子供が独り立ちするまでは農業には戻れません」こう言って彼は苦笑いをみせた。
 石垣島には米軍基地はない。第二次大戦中の一時期、日本軍の陸海軍の将兵が駐屯。町は米英両軍による激しい空漠にさらされたが、敗戦とともに武装解除され、島から日本兵が一掃された後は米軍が駐留することもなく、以来、人々のいとなみは基地とは無念だ。
 にもかかわらず、石垣島には今も昔も<土地>をめぐる悲話が絶えない。上地さんも土地を求め、土地に翻弄されながらこの島で50年近く生きてきた。
 戦後、島の開拓に一役買ったのは米軍の基地拡張で沖縄本島を追われた615世帯、2800人に上る農民たちである。彼らが石垣に渡ったのは1950年から57年にかけて。朝鮮戦争を機に沖縄の戦略的重要性が見直された時期であった。わずかばかりのイモやバナナの苗にクワやカマ、そして雨露をしのぐためのテントを手にしての入植だった。
 その中に上地さんの両親もいた。父源吉さんは沖縄本島読谷(よみたん)村楚辺(そべ)の生まれ。戦後移民先のサイパンから引き揚げてきたが、間もなくして米軍の土地接収に遭い、4人の子どもをつれて同郷の農民28世帯、125人と共に米原に移住した。
 源開さんが生まれたのは52年9月、米原の浜に上陸して26日目であった。隣村の農家の田小屋で生まれた。父は、彼に名乗り頭字の<源>の字と開拓の<開>の字を組み合わせて源開と命名。入植者たちは黒い瞳の愛くるしい赤子の誕生を<開拓1号>と喜んだ。  

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