◆ "本土マネー" が流入
上地源開さんに私が初めて会ったのは85年の春、彼が33歳のとき。そのころ彼は両親と共に農業をしていた。雨の多い年で、葉タバコも野菜も根腐れして悲鳴をあげていた。「今年の年収がいくらになるか、そんなことはわからない。島の農業はすべて天気次第だから…」彼はこう言って恨めしそうに空を見上げた。入植後30余年、既存の農家では年収200万を超す利益を上げていたのに、移民地の人たちは耕耘機一台買うこともできず、彼もまた
"赤字農業" で妻と3人の子どもを養っていた。
<写真>美しいがゆえに狙われ、人手に渡った島の海岸線。「ヤマトはいつまで沖縄を食い物にするのか…」。上地源開さんの嘆きは深い。)
彼は上地家の4男。農業を志して農林高校に進んだが、卒業後、琉球政府が奨励する集団就職で本土に渡り、大阪や東京の自動車会社や電器店で2年間働いて73年秋、島に戻った。だが、島に帰った彼が見たものは本土企業による凄まじいばかりの土地の買いあさりだった。
この時、石垣島の海岸線に近い大部分の土地が "本土マネー"
の餌食になった(図参照:黒い部分は本土資本に渡った土地)。日本の大手商社や不動産業者などが台風や干ばつによる被害で借金で借金地獄にあえぐ農家の土地を坪当たり1000〜1500円の低価格で買いあさった。日本復帰後の観光開発をあてこんでのことだった。国の草地改良事業で整備された牧場までが軒並み買われた。島外資本に渡った土地は1425万平方メートル、その8割が農地だった。
◆ 入植者の半数去る
米原でも土地を手放す者が続出。父源吉さんも入植時割り当てられた1万6500平方メートル(5000坪)の土地のうち2割を売却した。異常気象による不作でかさんだ農協からの借金を返済するためだった。米原では復帰後2年目にして入植者の半数が土地を手放して村を去り、農業を継ぐ若者はわずか4人になっていた。自殺者も出ていた。「小さい時から親の苦労を見ていたから、早く両親に楽をさせてあげたい。このままでは村は消えてしまう」、両親を手伝って葉タバコや砂糖きび栽培をしていた彼は、同じ悩みをもつUターン青年らと "島興し" 運動に取り組んだ。市の農業委員会を動かし、企業の手に渡った土地につぎつぎと農振法を適用させ、農業以外には使用できないようにした。「地元の農協までが土地買いの先頭に立って農家を回った。農民もまた農協などからの借金を早く返して農業から足を洗いたがっていた。土地買い戻しの追い風になったのはオイル・ショックだった。企業は農振法の網をかぶせられて土地が使えず、音を上げていた。だから買い値と同額で手放した。ラッキーだった」 −以下省略−
◆ バブルの波 島襲う
経済は急成長を続け、借金も少しずつだが返せる見通しが立ってきた。しかし、それも長続きはしなかった。バブル経済の波に乗ってまたもや
"本土マネー" 島に押し寄せたのだ。三井、住友など大手銀行に後押しされた企業が札束をちらつかせながら村の中を歩き回った。相場は3.3平方メートル(1坪)2万円。高いところでは3万円もの値がついた。「目の前に大金を積まれると子どもの養育費や残った借金のことが頭に浮かび、もうどうしようもなかった」。長期干ばつによる減収とカボチャの大豊作による価格の暴落が重なり、借金がふくらんでいた。海岸近くのカボチャ畑(7000坪)の土地が1億4000万で売れた。「夜も寝ていられないぐらいの攻勢だった。土地買いは畑の中にまで入ってきた」。−中略−
本土企業の土地買いあさりが若者の離農を促し、第一次産業の衰退に拍車をかけた。石垣島の景勝地にはバブルの崩壊で不良債券化した畑地がつらなる。
<写真>島のいたるところで見られる立て看板。これらの土地の多くは1980年代に"本土マネー"に買い取られた。こうした土地が産業振興の妨げになっている。
*土地に翻弄された半世紀 おわり
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