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2003年「人類館」大阪上演に寄せて 騙す側と騙される側の、どちらがいったい悪いのかー。答えは自明である。人を騙すことが良いことであるわけはない。差別や偏見についても同じである。でもいつまで騙されつづけたり、差別され続けているならば話は別である。「人類館」の作者、知念正真はウチナーンチュのそんな生き方にキレたのだろう。いったいお前らはいつまで<被害者の指定席>に甘んじているんだ、と。近現代史の中にみる沖縄は、明らかにヤマトによる被害者である。だから沖縄が生み出す芝居が状況告発的なものであったとしても何ら不思議ではない。だが「人類館」はそこが違った。知念は歴史上の出来事を一つひとつ丹念に引き出してきては、その中で呻吟したウチナーンチュ自身を、これでもかこれでもかと笑い飛ばすのだ。しかもその笑いの落とし所がよい。笑いはいつのまにか戸惑いにとって変わり、ほろ苦い哀しみへと変質したりする。もちろんその逆もある。観る者に、可笑し涙と、悔し涙と哀し涙の入り交じった‘七色の涙’を流させるなんとも不思議で、計算され尽くした芝居なのである。こんな観劇体験はそうそう味わえることではない。しかも時空を超えて矢継ぎ早に放たれる<言葉の銃弾>に撃たれていると、なんとも心地よいのだ。いったい、我が身、我が内面を撃たれることがなぜそんなに心地よいのか。沖縄の歴史とその結果/現在を我が身に重ね合わせてみたとき、きっと誰しも合点がいくからだろう。だとすれば、いくらのんびり屋でお人好しのウチナーンチュであっても、もう自らの未来を自らの意思で切り開いてよいのではないか。青い海や青い空、そして島唄、泡盛、健康食品など自分の利益となるものには関心あっても、基地問題などには見向きもしないヤマトの国の人々。いま、「空前の沖縄ブーム」といわれる中で注がれつづける沖縄への眼差しと、明治の時代にあの「人類館」に群がった人々の好奇にに満ちた眼差しが、私にはどこか重なり合っているように思えてならないのである。この半世紀、沖縄がヤマトンチュに見てもらい、知ってもらい、共に考えてもらいたいと願いつづけてきたことはこんなことだったのだろうか。人間、騙すほうが悪いのか、騙される方が悪いのか。正解は「人類館」の中にある。 |