中国大陸3000キロ踏査行


進貢使路とは


進貢使たちは,進貢船に乗って中国をめざした
中国大陸3000キロ踏査行パンフレット表紙

★進貢使路(しんこうしろ)とは

 進貢使は中国皇帝によって定められた貢期にしたがって派遣された。那覇から泉州・福州まで海を渡り、そこから北京までの3000キロを約60日かけて徒歩や河や運河を辿っていった。琉球専用の受け入れ港は当初泉州であったが、1472年に福州に移り、進行ルートも泉州ー南京、泉州ー北京、そして福州ー北京に変わっていった。進貢使路は数百年におよぶ琉球と中国の交流史が刻み付けられた「歴史の道」や「経済の道」であり、また「文化に道」でもあった。

★琉球・中国交流史

 琉球と中国の交流は、1372年、琉球国王中山王の察度(さっと)が、弟の泰期(たいき)を遣わし、中国へ進貢したのが始まりだといわれている。これに対し中国からは冊封が行われ、以来、廃藩置県までの500年間に渡って「冊封−進貢関係」をベースに琉球と中国の関係は続けられた。琉球と中国の交流史は、この「冊封−進貢関係」を抜きにしては考えられない。琉球国は中国との進貢貿易をもとに、広く東アジアや東南アジアの国々とも交易を行い「大交易時代」を築きあげた。

★冊封(さっぽう)とは

 進貢国の王侯がかわると、中国皇帝が使者(冊封使)を派遣し新王を命した。琉球にたいする冊封は1404年から1866年の最後の琉球王尚泰(しょうたい)まで24回行われたという。冊封使一行は400〜500人にのぼり、4〜8カ月滞在した。冊封の式典は首里城の前庭で行われた。

★進貢(しんこう)とは

 中国の冊封体制下にあった国が皇帝に貢物を献上することをいい、進貢使は総勢100〜300人程度で編成され、その使者を進貢使という。琉球の中国への進貢は1372年から明治初年まで続けられた。進貢の回数は2年に1回、5年に1回、10年に1回、そしてまた2年に1回と時代とともに変遷していった。

★進貢使路(しんこうしろ)とは

 進貢使は中国皇帝によって定められた貢期にしたがって派遣された。那覇から泉州・福州まで海を渡り、そこから北京までの3000キロを約60日かけて徒歩や河や運河を辿っていった。琉球専用の受け入れ港は当初泉州であったが、1472年に福州に移り、進行ルートも泉州ー南京、泉州ー北京、そして福州ー北京に変わっていった。進貢使路は数百年におよぶ琉球と中国の交流史が刻み付けられた「歴史の道」や「経済の道」であり、また「文化に道」でもあった。

出典/中国大陸3000キロ踏査行・事前学習会用小冊子


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